受け入れるべきか、受け入れないほうがよいのか、得することか損することか・・・


人はまず、頭で考えようとするのです。


頭で考えようとする人ほど、健康を損ないやすく、病気になると治癒が遅れるのはそのためです。


日本の平均寿命をみると、女性のほうが長いですね。


これはずっとそうです。


・・・しかし、これは日本だけではないのです。


どこの国もそうですし、昔からそうなのです。


その理由はいろいろ指摘されていますが、私は男性よりも女性のほうが、物事を素直に受け入れるからだと思っています。


女性は何事においても、男性よりも受け入れやすい性質をもっています。


だから踊らされやすいのも女性です。


詐欺に引っかかるのも女性が多いし、安売りに目の色を変えるのも女性です。


そこがまたかわいいというのも男性ならおわかりでしょう。


しかし、男はそう単純になれません。


たしかに私たちは物質でもありますが、その物質の肉体はレンタカーのようなもので、いつかは返さなければならないものです。


自分のものではない車を自分自身だとカン違いしてこだわっています。


・・・借りたものでも磨くことは大切です。


しかし持っていかれるまで、そのことに気がつかないのは愚かなこととはいえないでしょうか。


病気治しが簡単なのはもうわかっていただけたものと思われます。


病気になったら、病気のことを忘れ、治すことを忘れ、失ったものを忘れ、すべてを忘れて、いまの自分をそっくり受け入れて、そこから何か自分がわくわくすることをはじめればいいのです。


そうしたらすべては変わってきます。


そのためにみんなそれぞれの人生があるのですから。


・・・とはいっても、なかなかこのことはわかってもらいにくいのです。


その大きな理由は、人は受け入れることが苦手で、すぐに吟味をはじめるからだと思います。


小さい子供が生まれてすぐ死んでしまえば「ああかわいそうに」とだれもが思います。


しかし、それは私たちが勝手に思っているだけで、子供に聞いたら、その子は「一生を精一杯生きたんだ」と答えるに違いありません。


与えられた一生というものはみな平等なのです。


時間がおのおの異なっているだけ。


・・・ではなんのために人は生まれてくるのか。


それは「人となる」ために生まれてきたのです。


人生とは自分とは何かを知ること、そのために人は生まれてくる。


だからそれを知ればいいので、時間の長短は関係ないのです。河成鎮次郎氏によると、100年生きて「あれもしたい、これもしたい」といろいろなことをするのもひとつの人生ですが、生まれたとたんにすべてを知って死んでいく人生もあって当然です。


どちらが価値ある人生か、それはだれにもわからないことです。


かぎりある肉体にこだわるのは、物質にこだわっているということです。


MR転職情報などによって医療業界への就職を目指している方に言いたいのは、QC(品質管理)が大切だということです。


私もQCの基礎教育を何度も受講し職場でその展開に努めました。


ある博士はこれを6つのステップに分けて実施していくのがよいとし、以下のようなことを提唱していました。


目標だけ示してそれを達成する方法を決めておかなければ、単なる精神的管理に堕すおそれがあるという......もっともです。


もう一つ、教育.訓練することについて......


作業標準や技術標準など、どんな立派な規定があってもそれを配布しただけではだめ。


キチンと教育しなければ身につきません。


それを身につけてはじめて部下が育つのです。


任せておける人間ができます。


これらが理想であり、そのための教育であり訓練であるといえるでしょう。


さて、QCを進めるには道具が必要です。


問題点を把握するためには、ニ項確率紙などを使います。


これらは一つの問題を解決するとき、必ず使うわけではなく、時と場合に応じて最も役立つものを選んで使えばいいでしょう。


ちょうどゴルフ場でボールの位置とホールの関係でクラブを選ぶのと同じ要領ですね。

『正則文部省英語読本』は、明治22年外山正一の編纂したものです。


その広告文にいわく・・・


「本書は、本邦諸学校生徒に英語を正則に教授するの目的を以て編纂せるものなり。


そもそも英米にて刊行する英文読本は既に英語を理解し得る老の為め作りたるものにて、その文章は英米の児童にありてはこれを読み下せば即ちその意昧を了解し得べきものなる。


故に、斯の如き児童のためには便利有益なるものなるべけれども、本邦人の如く英語を理解せざるものにありては、右等の英米読本はいかに初歩のものと雄も必ず訳読せざるを得ざるが故に正則に英論を教授するには甚だ不適当のものなり。


今日なお我が国諸学校に変則流の大いに行わるるは英木読本を教料書に用いるに主囚するが如し。


これを以て本齋はその弊を避け、専ら正則によりて英語を教授するの方法を設けたるものにし、その使用法の如きは緒冒にこれを詳述し、英語の発音の如きは新語の出つる毎に各葉欄外にこれを解説せり。


たしかにこの『正則文部省英語読本』には


「会話の一つ一つに連絡がなく、内容が面白くないのが大きな欠点である」


・・・と市河三露博士も言っておられるようなマイナス面もあります。しかし、


「その意図するところ、その編さん法等において当時としては一頭地を抜くもの」


だったのです。


とにかく、その『正則文部省英語読本』と『英語教授法』の2つの著作からのみしても、外山正一は日本英語教育史上、岡倉由三郎以前において、もっとも大きな位置を占めるべきです。


外山正一を取りあげて、その『英語教授法』のみで去ることは文学方面からの攻撃を受けるかもしれません。


石川遼 英会話がまだなかった時代・・・英語を学ぶことは大変なことだったのです。


いつかウトロに行くバスの中で、熊を拾ったという話をきかされたことがあります。


熊は春に穴から出ると、雪渓をすべって遊ぶのですが、ブレーキがきかなくなって、海岸の絶壁から飛び出し、石浜の中にドタリと投げ出されてのびたのを、鉱山師が通り合せて拾ったというのでした。


私たちが硫黄山にのぼったときその山頂で驚いたのも、そこが熊の便所であったことです。


「熊の糞で硫黄山が高くなったナ」などとあきれました。


知床の山では熊を獲っても持って帰れないから、猟師も入ることがありません。


そんな雄大な自然を残す知床ですが、今は札幌ツアーのようにツアーがあるようなので簡単にいくことが出来ます。


開拓者が入植した頃は、外におしっこに行って熊に尻を叩かれたとか、外の風呂に入るときは、かわるがわるガンガン(ブリキ缶)を叩いて熊番をした、ということも誇張した話ではないのです。


10年ほど前に或る小学校に行ったら、廊下の黒板に「熊のため学校に来ないのは欠席になりません」と書いてありました。


冬に押せる流氷に乗って来るアザラシは、一頭を全部食べると、すべての営養素がとれるものだときいたことがあります。


この地にいろいろ地名を残した人たちは、警備の武士のように壊血病にもならず、安全な冬越しができたようですね。


一度そのアザラシ狩について行ったことがあります。


流氷に近寄ると、あたりは眩い白光に包まれた荘厳な世界で、時々鯨がその光の中に虹色の潮をふきながら通っていましたが、アザラシの姿はありませんでした。


東方の富を手に入れる鍵は正確な情報だということを知っていた支配者は、科学者を励まして航海術を技術から科学へと発展させました。


たとえば、ポルトガルのドゥアルテ・パシェコ・ペレイラ(1460~1533年)の『エスメラルド・デ・シトゥ・オルビス』は、その当時の最も総合的な操船術の論文です。


1世代後に、ルネサンス期最高の数学者の1人ペドロ・ヌーニェス(1502~1578年)や、科学としての航海術で頭角を現した中でも筆頭株のドン・ジョアン・デ・カストロ(1500~1548年)らが登場しました。


デ・カストロの著書、『トラタード・ド・エスフェラ』や、さまざまな周航記には、コンパスの磁針気偏差から天文学やさまざまな海岸や港の描写にいたるまで、初めてアフリカに向かって船出してから100年の間にポルトガル人が学んだことがすべて含まれていました。


事実、これらの情報は東方の富を手に入れるための青写真にほかなりませんでした。


ジョアン2世もエンリケと同じように、探検とその後に続く貿易にとって、正確な情報こそ成功の鍵であることを理解していました。


そこで彼は、船乗りたちに海岸を調査するよう求め、彼らの発見によって現存の地図を塗り替えていきました。


ジョアンはまた海の秘密に関する情報も求めました。


風、海流、海岸、補給の場所その他あらゆる情報が、アフリカ西海岸全体を詳細に描いた案内書に盛り込まれていきました。


航海術の改善にも努力が払われました。


大叔父エンリケに倣って、ジョアンは、当時、最高の頭脳をポルトガルに招くことを慣例としたのです。


亡命か、あるいはキリスト教への改宗かを迫られていたスペインの偉大なユダヤ人天文学者や数学者の中には、喜んでジョアンの招待を受け、リスボンに移る者もあったそうです。


そして、彼らはリスボンで実用的な航海用具や技術を考案する仕事を続けました。


その中には、緯度と太陽の傾きの関係を記した『アルマナック・ペルペツウム(万年暦)』の作者アブラハム・ザクートもいました。


彼と行動を共にした弟子の1人、ジョセブ・ヴィシニョは、実際にディオゴ・カンの探検に加わり、航海中、太陽の位置の測量を行いました。


ヴィシニョは、その後、ザクートの『万年暦』を最新のものにして、ヘブライ語からラテン語に訳しました。


ザクートの『万年暦』と、正午の太陽の高さを測るための従来より正確な器具を得て、ポルトガルの船乗りは海上での自船の緯度を決定することができるようになったのです。


それから数年間、ポルトガルの探検家はポジャドールから1200マイル以上先のシエラ・レオネに達しました。


しかし、1460年に彼らの冒険は一時停止します。


この年、本国ポルトガルでは、サグレスのヴィラ・ド・インファンテで、偉大なる支援者エンリケが66歳で死にました。


当初、エンリケの死によって生じた空白を埋める者は誰もいなかったのです。


西アフリカとの貿易は続きましたが、東洋へのあてどのない航路を求めて、さらに探検を続けようとする者はほとんどいなかったのです。


1481年、ジョアンニ世の戴冠によって、ポルトガルの探検の第ニ期が始まりました。


ディオゴ・カンは、単独で、1482年から1486年の間に2度の航海を行い、地図のアフリカ海岸線に1450マイルを加えました。


最後の航海では、ナミビアのワルビス湾50マイル北のクロス岬まで達しました。


2年後、バメトロメウ・ディアシュが、最後の1000マイルをカバーし、自ら嵐の岬と名づけたアフリカ最南端の地点を回りました。


東方への海路がついに開けたので、ジョアンはこの地点を喜望峰と命名したのです。


1434年に、探検のために選ばれたエンリケの従者の1人ジル・エアネスが、恐れられていたポジャドール岬を回りました。


1年後、エアネスは、アルフォンソ・ゴンサルヴェス・バルダイアを伴って、再び未知の海へと出発しました。


ポジャドールの南、さほど遠くないところに彼らは足跡を見つけました。


この付近に入が住んでいるらしい、と彼らは興奮しました。


ニュースを聞いたエンリケは、少なくとも原住民1人を生け捕りにせよと命じ、2人の船長を再び南に派遣しました。


ポルトガル人が初めて原住民を連れて帰ったのは1441年のことでした。


原住民を捕らえたのは、ポジャドールから250マイルも先に航路を延ばしたアンタン・ゴンサルヴェスでした。


捕虜は男女1人ずつ。


ゴンサルヴェスに続いて、若き騎士ヌーノ・トリスタンは、ブランコ岬まで行き、エンリケが「奉仕か身代金によって」利益をもたらすことができる人間に興味をもつだろうと考え、さらに10人を連れてきました。


彼の考えは正しかったのです。


トリスタンが捕虜を連れ帰ったことによって、ヨーロッパ・アフリカ間の奴隷貿易が始まりました。


2、3年後、初期のカラヴェラ船で航海していたジル・エアネスは、200人をくだらない捕虜を連れて戻り、彼らをラゴスで奴隷として売りました。


ますます多くの収入がエンリケに入ってきて、彼の努力を時間と金の無駄だと非難していた人々を沈黙させました。


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